記憶・理性・想像力

2007年12月17日月曜日

それなのにわたしには何もくれなかった


カルヴィーノの「イタリア民話集」より


そしてそこで楽しく暮らした。

それなのにわたしには何もくれなかった。

(「魔女の首」)


こうしていつまでもふたりは仲よく暮らしたが、

わたしには何もくれなかった。

いや、ほんの一文だけ恵んでくれたが、

そんなものは穴のなかへ捨ててしまった。

(「林檎娘」)


こうしてふたりは楽しく暮らした、

いつまでも仲むつまじく、それなのに

わたしには何ひとつくれなかった。

(「プレッツェモリーナ」)
ハッピーエンドのお話にくっついてくる、言葉たち。
物語はわたしには何もくれないのだろうか?
望みに満ちた考えとは縁遠い俺の現在。


2007年7月1日日曜日

理性1


かたまりとかたより-真剣勝負-

6月27日。奇しくもそれは俺が39歳になる半年前のことであった。20時43分、動悸が耳鳴りのなか、右耳に携帯電話を押し付ける。5回ほどのコールで、珍しく相手の声がする。
 これからが勝負だ。
 俺は、先日の飲み会でのはしゃぎぶりを詫びつつも、「押さえ」として、「あなたと久しぶりに会えて、ほんとうに嬉しかったから」と告げ、たたみかけるように、食事に誘うのだったが、彼女はふたりきりで会うことに抵抗をあらわにし、なおも食い下がろうとする俺に、業を煮やしたと見えて、溜息とともにおずおずと告げるのだった。こういうことは聞かれないと自分からは決して言わないようなことがらだけど、実は、自分には付き合っているヒトがいる、だから、他の男性とふたりきりで会うのはやはり、付きあっている彼に悪いので、お断りしたい。
 あ、そうなんだ。
その言葉がようやく出たのは、一瞬の間のあとで、つまり俺は絶句したのだったが、絶句しながら考えたのは、「ふられた」という圧倒的な事実を前にして、なおどのように「巻き返し」を図ろうか、というものであったが、もちろん具体的な「反撃の一手」など思いもよらないのだった。
件の断末魔の叫びのようなひとことに続けて、再び一瞬の沈黙が両者の耳元を覆ったのだが、えーっと、のあとに接いだ二の句は、口が勝手に動いた挙句に出た言葉だった。
別に取って食おうというわけじゃなし、こちらとしても、現在ただいま、良き伴侶を探すなんて心の余裕もない状況のなかで、実はある目的があってあなたを誘っているのだから、と一転して一週間前の「はしゃぎっぷり」などなかったかのように、こちらもおずおずと語り始めるのだった。
実は、俺、小説を書かなければならない。あるヒトから、さいごうどん、そろそろ書かなければダメだよって言われてね。まあ、息子二人を引き取ったわけだけど、あいつらに胸を張って親父ぶるためにも書かなければならない必要が出てきた。ところが、こうしていつの間にか、生活がルーティンになってしまって、考え方とか言葉の選び方とかが、どうしようもなく「俺」から、逃れられなくなってしまっていることに気づいてしまって。もちろん「俺」なんてものは、本当はなんにもなくて、いままで生きてきたなかで読み聴き観たものからできているんだろうけど、読むものも聴くものも観るものもどうしようもなく「俺」という、実は実体のないのだろう「寄せ集め」の「かたまり」のせいで、「かたより」がひどくなっていて、飽き飽きしているのが現状なのさ。
小説。
今度は向こうが絶句する番だ。この男、正気か。さっきまで自分のことを口説いていたかと思えば、こちらとしては最終通告をしたつもりなのに、「小説」なんて飛び道具を出してきやがって。だいたい、息子が二人いるなんて、飲み会のときにさらりとどさくさにまぎれて言い放っていたように思うけれど、よく考えたら、本人より先に同僚が足を引くつもりか、バラしたのだった。この男、いまこうして告白めいたことをさらさらとマクシ立てているけれど、自分に関する情報の公開は巧妙に回避しているではないか。